うすうすから出てきたぴったりする感覚

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すべては起きているだけ

分離させるすべての思考、実はコレ、超~めんどうな作業をしています

所有したいことは離れる定めにある、だから、すべてが持続しない、そうはできない

過去にとらわれると後悔と反省が

未来に思いを馳せれば不安と希望が

どこにも安定、安住はしない けれど、不安も 悲しみも 続きはしない

すべては起きて、すべては流れるだけ けれど 息づかいをする意識だけは確かに在るのです。

 

現実を堅実に生きようと思うと 自分が自分であるために 自分らしく生きようとします

そう動くと、人が物が出来事が自分にワ~ッと関わりを持ちたがっているような

関わりを持ちたいのは自分? それとも周囲? と思惑を距離で計りながら

しかし、その関係性こそ義理 人情 を含めた 絆 なのだからと思い煩い

仮にその関わりを拒否 拒絶したら

自分の存在価値ってどこにある?と自分や周囲に問い続けるもので

孤独を募らせれば それで、生きているっていえるのかな?と心が彷徨いだす

しかし、その問題意識が自分を裁き、罪や罰に囚われるのが「人」なのです。

 

知力は感覚を研ぎ澄ませ、知識を広げるけれど、さらに「知」へ囚われの身になるトラップがあり

本来、起こったことに身を任せる、流されるがままが自然なことであると知れば

まったく違った感覚が起きてくるのです・・・

 

本当に 今がリアル 瞬間の点がリアル

時間は続いていない ブツ ブツ ブツのブツ切りです

私はいない あなたもいない 本当は誰もいない

ただ 在るだけ

ただ 起きているだけ

周りもあるだけで そこに関係性は実はない

リアルはただ起きていることだけ

ただ 毎瞬 毎瞬 起きてきているだけ。

 


言葉で表現しようと思うと、表現の限界を感じてしまうのですが

ちょっと前のフジコラムで死と再生の話をちょろ~っとしました

ここ数か月なんだか、自我のプロセスに深く入り込んでしまい、関わることが煩わしい時を経て

結局、これまでが消えかかり、ついには死んだようです。

ひとつの自我のプロセスの死なのだと感じます

先日、あるクライアントさんから「FUJIKO.さん、死なないでくださいね」と言われたのですが

「なんだか死ぬような気がするのよね・・・」と口から思わずポロッと出てしまっていました。

うすうす感じていた、けれど、すでに持っていた感覚。

肉体の死という概念とは違う、「意識」の概念。

自我の死=三次元の中に生まれ出てから、漠然としかし、ずっと感じていた不明瞭なものが総崩れをし始めている感覚とその様子は、実態を持たない不安定さが、表面上、心もとなく見えたのかもしれませんが・・・

それも、まぁ気づいておきましょうって感じです、、、だって、分かる必要はなく起きてくることだけに任せるだけなのですから楽なものです。

字面ではなく感じたい方はnapierへお越しください、お話しましょう^^ FUJIKO.

次のMoon瞑想会&お話会は、7月20日(水)午後7:00~ 場所はnapierです。
※軽食希望の方はお知らせください、一緒に軽めの夕食をいたしましょう。

 

 

 

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