お腹いっぱい、ごちそうさま。

l201106160200現実に起こったことに、争いたくなるのが私達のココロ模様です

どこにココロ(思考・精神)を寄せようが、潜めようが個人の自由で縛れるものはないのですが、先日、「こまか過ぎて」お腹いっぱいになる論文を目にしました。

読み手に対し感じ、考え、思ったことに説明していく作業が大変なことは承知していますが、その論文は、説明責任をきちんと果たしている印象はあるものの、実に道徳のように正しく、実に宗教の教えのように規律的で・・・考える余地を与えられずお腹いっぱいになったのです。

そうなると、伝わるどころか「It’s enough. thankyou!(お腹いっぱい)」とディナーコース途中で満腹感を覚え、眠くなってしまいました。(思考停止状態)

「宗教・道徳」の教えや「(友・愛)情」がもたらす副作用のひとつには、「あるべきかたち」を崩すことは悪とみなし知らず知らずにココロを縛る要素があることです。

教えによる学習はどこでもできますが、学習は実践してより腑に落ちるものです。 読んで納得するだけでは学んだとは言えず、まして、試しもせず、多勢に無勢で論者の陰に隠れ逃げ道を用意しつつ否定的なヤジを飛ばす、まるで愉快犯的な楽しみ方をする方々が昨今、多い気がしています。

現象界の「二極」に慣れ切ってしまっている私達は、悲しいかな比較しなければ「正しさ」を立証できないと思わせられています。 しかし、十人十色。何かを淘汰するのではなく、何が自分の人格(=ココロ模様・思考・精神)の「正しさ」になっているのかを考えてみて頂ければと思います。 説得ではなく、人間として「慮る(おもんばかる)」の本質が腑に落とせると思うのです。

日進月歩、『よりよい世界』を追究することは世の常ではありますが、経済と自然保護の折り合いが未だ難しい仮想であるように、『良きこと』や『正しきこと』を求め追究し希望を持つこと、持たせることで、「たった今」の本心や別の姿を創造することさえも見失ってしまっては本末転倒。

自己を正当化すること、説得するこに追われるようになると、疲れたココロ模様・思念・精神がその人格を強烈に炙り出し、嗅ぎ取った方は『It’s enough. thankyou!』と眠り込んでしまうかもしれません。

 

 

 

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