なぜ自分じゃないのだろう。。。

lgf01a201312271600ずいぶん若い頃、好きなアーティストのライブを観に行くと必ずひとつの想いが湧きました。

「ステージに立っているのが、なぜ自分じゃないんだろう・・・。」

同じ人間で、どうしてステージに立てる人と立てない人がいるのか?私も目いっぱいの達成感を味わいたい!と思ったからでした。

幼い心は、その想いが何なのか上手くまとまらず、ライブの帰り道はなんだか楽しみのイベントがひとつ無くなったことへの寂しさと相まって、虚しい気分がまとわりついていました。

今も時々、アドベンチャー映画などを観ると、もっと広い世界を見てみたいたいと思うことがあります。(笑)

その虚しさは、思い切りやってみたいこと、生きている実感を得たいのに「制限」や「コントロール」をずっと自身に課してきた我慢だったと、そう理解したのはずっと後のことです。

以前、「自由に表現する・舞踊セミナー」に参加したときのこと。

内容は単に、曲に合わせ好きなように踊る。というものでしたが数十人の中で踊れない方が一人いらっしゃいました。

その方がセミナー後に「静もまた動の一部なのではないでしょうか?」と質問をなさったのですが、先生はキッパリ「それは言い訳です。」と応えておられました。

3時間の踊りのセミナーです、踊りに向き不向きや、好き嫌いを自覚しているのであれば、参加しない選択肢もあったはずですが、本音を無視してまで、それに参加したかったその想いとは・・・

それらの出来事の意味が私には、カリスマに対する「依存」と、知識を詰める「優劣」の評価を求め、現実的な計算と頭の正しさを答えにしたために、思いも寄らない手厳しい言葉(現実)で気づきを促されていると感じたのでした。

どういうことにも個人の学び、気づきが用意されているものです。

表現することを何の垣根もなく、誰でも、どんな風にでも、何をやっても良い、踊りを通じて、下手でも上手でも平凡でも、どんなことでも受け入れ合い、とりあえず好きなようにやってみましょう。

それが難しい。

実は、これがライブから帰る途中の私の心境にリンクするのです。

これまで自分の生き方を慎重にコントロールしてきて、自分のコントロールできる範囲でしか生きてこなかった世界の狭さが、制限ある者と、ない者の現実を、こんなにも隔ててしまうと感じたショックなのです。

夢が叶う、叶わないでショックを受けるのではないのです。
叶えるための制限を外した者は、夢すらも意図も簡単に運を味方に現実化させると知ってしまったショックなのです。

そうして挫折を知る者は諦めという形で制限を外し、物事を見る目が寛容になります、そういう目を得るために「夢・希望・期待」を追うことを魂は成長のためにわざわざ選び生き、天意(=あい)は叶わないことで自己的・利他的「愛」を教えているのです。

恋愛や夫婦、親友、職場の人間関係にも同じことが言えます。

例えば恋愛では、恋をしている時は自分をより良く見せるための努力はしますが、恋愛を始めるとお互いの努力を求めあいます。

自分をコントロールできる限度内で生きてきたのですから、恋人(もう一人の自分)の出現は不測の事態、2倍のコントロールとバランスが必要となります。

これまでは自分のコントロールだけでしたが、目の前のお相手は貴方の制限とコントロールはお構いなしです。

貴方が周りに配置する人々にイライラする時は、貴方の思い通りにコントロールしたい、その制限・限度に気づかせるために目の前に現れ、あなたの我慢の垣根を土台から壊そうとしている、もう一人の自分にイライラしているようなものなのです。

自分が制限をかけ、これまでやっとの想いで自己をコントロールして「上手く生きてきたのに」と思いながら、好きでたまらないはずの相手が自分の「上手さ」を否定したり、拒絶したり、または、脅かす行動を取ったりする。

それは「違い」だけで、手前を善にすれば、他者を悪にして比較してしまいがちですが、単に気づきを得るための両極でしかありません。

その違いをエゴ比較のまま、悪を作り続けると、競争になり、闘争になり、最悪の場合は破壊に繋がるのです。 ひとえに、何をしても自由なのに、制限の中を生きてきた自身の腹立たしさを、人やモノの「~せい」と批判しているだけだとお気づきになると思います。

制限なき自分の感覚に素直になれず、自らストレスを生み、人を観て悲しい寂しい想いをする。 ひたすら耐えるだけの自分にピッタリな言葉を用意するなら、それは「ドM」の何ものでもないワケです。

自らをコントロールしてコンパクトに小賢しく生きてきた裏で、親や友や世間からは「安定している」と言われても、自分の心が常に窮屈だと感じているならチャンスです。

そういう思いに心当たりがあったら、一度、赤ちゃんの時のように理性を取っ払って「快」か「不快」かで生きてみる。

そういった感覚に正直になる時を造ってみると、心と行動の可動力は増し、意識は広がりをみせるものです。

どなた様も バラードで生きる、メローで生きる、シャンソンで生きる、ポップで生きる。 どんな自分でもいい、自分の感覚に正直になるとトライして観て下さい。

どの道、あなたが自分の生き方を決めなくても、あなたの人生は思っている以上にロックなのですから。

2 件のコメント

  1. 台所の より:

    今日の言葉に
    あ~なるほど・・・と
    ふっ・・と 自分自身に 笑いが出ていました。
    いつも ありがとう。

    1. fujiko より:

      台所のシャボン玉さん江

      こちらこそ、コメントありがとうございます(^^)
      私が皆さんで、皆さんが私です。
      ですから、いろんなメッセージが湧いてきます。
      ありがとうございます< (_ _)>

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