人を貪る

lgf01a201501121000自身もチャレンジしたワークですが、先日ある出来事がきっかけで理解が降りてきて浄化による体調不良が続いています。

チャレンジしていたワークとは「人を貪らない」というものでした。

「貪る」ことを止める。 どんなことだと思いますか?

お気づきの方もいるかと思いますが、世間話はある意味すべて被害者意識ベースで話されています。

例えば「どうあっても、私は一生幸せになれない。」というセリフ、ドラマなどでも使い古されたフレーズではありますが、「どうあっても、私は幸せになれるのよね。」というセリフはシリアスなドラマでは聞きません。

ドラマや映画、小説、雑誌、週刊誌、ワイドショーにいたるまで「自力ではどうすることも出来ない」焦燥感を煽り、被害者意識が大衆に染み込むようにプログラムされています。(※ですから、TV番組を英語でTVプログラムというのです。

生命力ある方は「私なら大丈夫、それぐらい!」と、頑張りを前面に出しますが、自我の馬力で生きようとすれば我のエネルギーは腰にきて、身体も無理が効かない状態になるのです。

napierのゲスト様の中には、そうなる前の気づき=予知能力のようなサイキックな力が欲しいとおっしゃられる方もおいでです。

それには感覚だけでもダメで経験も同時に重ねることで分かってくることもあります、大抵の場合は先んじて何かを察知することよりも、起きたことに「そういえばあの時・・・」とのちの気づきに生きた学びを得て、腑に落とすことが多いものでなのです。

さて、人を貪るというのは、つまり、感情の貪り合い。ということになると思います。

親、兄弟、親友、同級生、同僚・・・自分の人生には主要なキャストが配置されていますが、自分の人生は自分が主役です。 登場して一生関わる人もいれば、エキストラのようにすぐ去る人もいて当たり前の舞台です。

私達はそのキャストに時に甘え、甘えられ、叱ったり、叱られたり、ベタベタしたり、されたり、頼られたり、頼ったり、そういった出来事をドラマとして演じていると考えてみて下さい。

これらを味わい尽くせばハートは成熟します。

例えば老人が世俗的なことに動揺することが少ないのは、自身に関わる感情をほぼ味わい尽くした経験がおありだからなのではないでしょうか。

筋肉が鍛えられるように、感情もまた鍛えられる。 それは天意(あい)の形でもあり「精神的な自立」が現実的になった姿勢でもあります。

人は感情から切り離されることはなく一生涯、味わい続ける。それが醍醐味ですが、感情について思考で理由を探したり、意味づけを外してみると、更にそれを超えた段階に進み内なるハートの筋肉が鍛えられることになり、人生に余裕を持った豊かな生き方を初めて意図するようになる気がいたします。

一度、きちんと向き合う、そして、あえて一人を楽しむ。(※細かくいえば、人はたった一人の世界で生きていますので)

依存することも、させないことも必要です、依存というネットリとしたエネルギーでお互いをくっつけて離そうとしないのは、感情を貪る=人を貪ることになります。

3次元のマトリックス=この世では「心地良い」ものと刷り込まれただけ、長年それを当たり前としていると目覚めるどころか意識は眠ったままになってしまうもの、豊かな気持ち(自発的な愛)は、無自覚に人を貪ることをさせないものです。

体調に出るほどの浄化は、常識的「優しさ」「情けの深さ」といった【慈悲】が、頼りたい人の「エネルギーの貪る心」を引っ張り出し、返って貪りたいほどの依存心を更に強固にさせてしまうのだと、教えてくれるように起こりました。

そのことが腑に落ちた途端、心よりも身体が正直に反応してくれたというワケです、有り難いものです。

感情はただの反応です、感情に伴う意味づけは個人的なもの、個人感情で衝動的に行動すれば、トラブルも起きやすい。
情けや慈悲もいいことの様で、与える側や受け取る側の意味づけによって全く違う側面を見せるものです。

慈悲を施すまえに「一呼吸おく態度」は「愛あるスペース」を生み出します。

直感的な体感を信頼し、慈悲ではなく天意に従う姿勢に依存などなく、人として深みと安定感を生み出します。

ハートが広くそして深さのある体験をし鍛えられるなら、我が子を尖刃の谷に落とすライオンになったつもりで慈悲を与えるのではく、這い上がる強さもまた愛だと知る経験をすると新しい世界が見えてくるかもしれません。

そうすればサイッキクな才能など必要なくなりますから。

 

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