千手観音とパラレル現実

中国障害者芸術団の『千手観音』この舞踊は見る人を魅了しつづけていますね。

人生、ピンチとチャンスを繰り返し、ピンチをチャンスに変えるには、ひとつの物事を多視点から捉える、視野の拡大を身に着けることが大事だとお伝えして参りました。

私自身そういう視野を持つことで大部分のことを腑に落として参りましたが、ピンチの時の『待ちの姿勢』に対しては未だ慣れることはなく、ドラマの様に突然ピンチが始まるワケでなし、この堂々巡りの想いが自分を支配しないよう、普段の心掛けや教訓めいたものを構えて不測の事態を乗り切ろうと、それこそ人間臭さの視点から対処、模索、実験しておりました。

しかし、ベースゼロ・スピリチャルセミナーでもお伝えしている通り、生き方に方程式を設けると、生き方が狭く、小さく、とたんと世知辛くなります。

ピンチの時こそ『果報は寝て待て』なのか、感情を味わい身を任せ『ジッ』としていたらいいものなのか・・・いろいろ試すもののコレだという手応えは全くないまま。

時が経てば必ず目の前は開ける、そう信じて分かっていながらも、時間の流れは体感と同じ、延び縮みする生きものとなって時にゆくてに大きな壁を作ります。 その時の人は『待つ』姿勢より『攻め』の姿勢に転じるか否かと思考が語りかけてくるのものです。

しかし、先日のフジコラムでもお伝えした通り、空間に無数存在する時を知覚した私は、過去現在未来からなる直線軸で表されるものではなく、もはや無限の空間からポコポコと生み出されるランダムなパラレルワールドが広がっていることは疑いようもなく、そう知覚すると、どうも『待ちの姿勢』という発想が的外れだったことに気づきます。

201205231052_0006 - コピー十一面千手観音・木造・鎌倉・漆箔・玉眼。H20~22修理なにがピッタリな言い方がないか考えると、それが千手観音がそのものなのです。

私という軸があり、時空間が無数に広がる世界が空間に詰まっているのです、そしてそこに視線をフォーカスするとそこは無数のドット(点々)が濃密に集まり始め形(形霊)を成していき、その「形状」こそ意識の扉となり現実化するのです。

軸になる観音様には無数の手があり、その手が空間から自分の本音を引き出し地軸となる観音が表現したい現実を引き寄せます。

目からウロコです。

以前にもお話ししましたが、観音は人間の内面を観て本音を具現化した仏です。その観音様が表現したい事(アイディア)が閃いた瞬間、その時空の扉はすぐに用意されます。

まるでドラえもんの四次元ポケットの様に。
そして、この世に生まれ、すでに現象化している人間は、この物理次元において、一度に沢山の事を同時に出来る身体機能はなく、ひとつの事をコツコツやり遂げ、ひとつ一つしか結果が出ないわけです。(それが地球上でのルール)

いろいろなアイディアが閃いているのですから、やりたいことが沢山あり、感覚は「うずうず」するのですが、ひとつづつしか体験できず、その過程で喜怒哀楽を味わうおかげで、存分に地球ゲームを楽しめる訳です。

時空間は私達の前に広がっています、「待ちの姿勢」などという意味づけは無意味。 やりたいと思えばその扉は、他の扉より密度が濃くなりハッキリ現実化していき、あとは自分の動きで扉を開けるだけ、待つという概念はないのが真実です。

待つという言葉の裏には「チカラを蓄える」的な要素がはらんでいますが、扉を開けるという努力なども要らないのです。

なにより大事なのは「恐怖心」を捨てるだけ。 その為にピンチは訪れ、自分を鼓舞するように経験を重ねさせ、出来た傷を治す自然治癒力をその経験の中から創り上げ、お陰様が怯まない(ひるまない)勇気を身に付け私達に見方してくれるのです。

そうしてチャレンジを重ねた人生に後悔はないのです。

これまでの私のように、そのシステムが目の前に広がっていることや、頭で理解できていなければ、意識は『寝たまま』になっていても仕方ありませんが、目の前に広がる空間はなにも酸素だけの空間ではありません。

その酸素の中に水素もあり、水は情報を伝達する物質であるならば私達の願いを空間に伝達し、どこでもドアの様にその時空をちゃんと用意して待ってくれているのです。

では、何が私達の人生を嘆かせるのか?それはあなた自身の「好き嫌い」などの差を生む否定に他ならないのです。

すべては DO IT! やるだけ。 シンプルにそれだけです。

 

 

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