常識の中の幸せ

常識の枠で幸せを計るとロクな目に合わない。

というのが私の持論である^^

そう言い切ってしまう私に人は非常識という目線を送ることがある^^

といっても常識人はマナーがあり陰でコソコソの心得があるらしく
マイルドなえげつなさに時には感謝することも・・・^^;
※見えちゃう人なので空気はひしひしと感じてます

幸せに対する常識と非常識の見解について今日は少しベラベラと^^

これなぜロクなことにならないのか?

幸せは当然だが目に見えない。
また常識で計れる幸せは
どちらかというと不安を土台に安心を得る幸せであり
幸福感は一過性になりがちという話。

つまり、常識内の幸せとは刹那的であり枯渇感を生みやすい。

エネルギーについて語らせると熱くなるので
ココだけを覗いている方々には、私が真面目
と人物像が一人歩きしているらしいけれど^^;

個人セッションやセミナーを通してお会いする殆どの方々は、
いい意味でその想像が裏切られた。という声を頂く

強調しておくけれど、あくまでイイ意味で^^

創造現実と創造母胎の両方を見据える者としては
結構、常識をド返しした発想=非常識が
今を突破する鍵になりうる事例を多く知っている。

突破する鍵を分かりやすく言えば発想の転換ということになる。

昔話だが、私にはゲイの男友達が2人いた。

ひとりはもう亡くなってしまったけれど、
もう一人も常識の枠で幸せを追いかけるには、ほど遠い人生を送っていた。

バイト先に行けば飲み物をサービスしてくれたり
お客さんに絡まれて顔にマジックで髭を書かれてもニコニコしてたり
めっちゃお人よしのゲイの男友達が、ある日、警察に捕まったことを新聞で知った。

罪状は薬物所持。

警察病院で更生した彼は、出所後、上京。数年後、
当時、話題だったニューハーフに変身して戻ってきた。

久しぶりの飲み会、がしかし、オーダーしようにも店員が寄り付かない

そんな状況に「オカマを舐めんじゃないわよぉーっ!」と放ったその声は
しっかり男で、周りは度胆を抜かれていた。

私達はといえば、彼女を含めてその状況を楽しんでいたのだった。

どんな境遇でも、どんな状況でも、人は笑える。

笑いは人をホッとさせる、変な気配りより大事なことだと思う。

それはどんな時でも、腹の据わり具合=覚悟みたいな生き様的センスが光る

自分でいうのも何だが、過去に出逢った人達は際物揃いだったけれど
そんな際物と共にした時間とタフな経験に魅せられ、
頭から腹に落とし込んだことが沢山ある・・・

帰りのタクシーの中で長かった髪をバッサリ切っていた私に
「長い髪を切る切なさは女じゃなきゃわからないわよね・・・。」と

その感性は、女の私よりも女性らしく
女に胡坐をかいていてはイカン。と若い私は思ったものだった

それから私は男女や全ての枠を超えた超越人生を送りたいなどと思ったりした。

私の個人的な意見だが、罪は償えばチャラだと思っている。

罪は消えないけれど、人は変われるし、環境に育てられるところは十分にある。

もちろん本人がエナジーの方向性を大枠で決めればの話だが・・・

公園の立札に「芝生に入らないで下さい」とあれば
誰のための公園?誰のための芝生?と感じることは無いだろうか

誰も悪くなろう、悪くしようと思ってすることは少ない、
なんとなく興味を持った。それが心を満たすモノであれば
一度は染まりたいと思うものである

経験したい欲求は、肉体をムズ痒くし、意識が不自由を感じて、
それでもなお興味をそそる物事に向かっていくものだ

今の時代、吉と出るか凶と出るか 個人も団体も一か八かの博打をどこかしらでしている
だからこそ社会常識が個人の力を更に弱める方向へ走ってはいけないとも感じる

罪人への偏見は、再犯するだろう風潮を信じているからにすぎない
それには、ワイドショーがうんざりするくらいイメージの刷り込みをするので
意識に見えない壁を人は無意識にこしらえてしまう
これは、集合無意識を上手く使う一億総白痴化洗脳が大いに働いてのこと

誘導された情報に染まり間違いを犯す可能性は誰にでもある
また、操作された常識を垂れ流しするようにインプットもしている
この二つの情報は、マスメディアが発信源である。

人の考える力を奪っておいて、不都合な真実は語らず
したり顔で極めて当たり前の事しか話さないコメンテーター
間違いを犯した者は笑わずに反省していろ。と、誰がどの口が言うのだろう

無知を責め続ける社会が、本来の世界であって欲しいか、
自分の正義が人にとって正義かどうか・・・
それは、ひとり一人の意識レベルに掛かっていると当時は感じたりした。

彼女とはよく明け方まで飲んで家路を歩いた

さっきまで、いたはずの車が消えるという現象に二人して遭遇したときは
夜中に狂気にも似た叫びをあげながらその場から走って逃げ、ゲロした思い出もある

もちろん、私も彼女も普段はまともだ。
けれど、隠し切れない陰を彼女が抱いていることも分かっていた。

第六感というセンスは人間的 ego の前では無力で
人として余計なお世話がどこまで親切になるのか考えた時期でもある

彼女はその後、お店を開いたと風の便りで聞いたけれど
今どうしているのやら、時々ふっと思い出す。

 

過去に何があったのかを私が気にしないのは経験上からだ

そして、その経験は当事者が選ぶことでしか起きえなかったことであるし
“時”が起こした、時の経験でもあることを既に知っている。

イケメン揃いのお店のお兄ちゃんが、彼女に投げた冷たい視線は
見た目を取り得に、場当たり的な楽しみ方を売りにしている割に
善良さを嵩に、不完全であるものを蔑むような目だったが

それは、得体の知れない者に恐怖する子供にも似て
目いっぱいの抵抗だったことは透けて見えていた

その誰もが、自分は不完全な輩でであることを知るがゆえに、
不完全なスタイルをわざわざ自分の売りにしながらも
いざ自分より不完全と思しき者を見ると、自分はアレ程ではないと
わけの分からない高揚感と安心にすり替えて、他人をイジリ倒す

自己肯定が他人否定から生まれやすいバカみたいな矛盾に気づくと
綺麗とか汚いとか、完全とか不完全とか、枠にハマるその基準が
お前の母さん出ベソ!的、必死な自己主張であると笑えるようになった。

大よそ、人や自分に起こるイタイ状況・キツイ状況の洗礼とは

他人との関わり合いで、
自分が何を欲しているのかを
知る裏返しであるということ

それには、自分を恥ずかしいまでに曝け出さずに、
本当の自分を知ることは出来ないのかもしれない。
と勘づいた私だったが

当時、ボディコンにピンヒールを履いて出掛ける
まさに、バブル時代の申し子のようなものだっただけに
「曝け出す」をある意味、地でやっていた気もするから
思い出すと顔から火が出てしまう・・・

そんな情報の波にのまれ続けると、人と関わるのが煩わしくて
全ての関係を一度全てリセットしたことがある

振り返ると、空っぽな自分を無能だと思っていたし
無価値な自分を消してしまいたいとも思っていた。

こんな思いが湧くのは驚く程ことではなく誰でも普通に抱くものだと感じる。

無い・足りない感覚を後生大事に持ち続けるには、
有る・満たす思いに執着する相当な圧がかかっているはずなのだ
執着は何気ない顔して、そんな自分像に変な優越感を無意識に与えてしまう

でも、あっち側こっち側とエネルギーは本来分けられる質のものではなく
見えれば差別が生まれ、見えなければその存在自体が皆無となるのは
あくまで人間の五感レベルでの話なのだ。

しかし、それに気づく者もいれば、
永遠に無関係で過ごす者もいる。

エネルギーは風の向くまま、気の向くまま、
実は、どうにでも表現方法を変えられるのが
柔らかさを持つ人間ならでは特徴で、
固くなってしまっては工業製品と変わらなくなる

その人の表現を恥だとか、罪だとか、欲だとか、常識で分けたがるが
行き着く先は、みな同じ “ただの経験” に集約されてしまうのである

人の問題意識は、個人の価値観で左右される、
だから「苦労の末に幸せがある」なんて価値観も
本来は世の中の風潮で自分の価値観だったものではない

つまり、誰かの受け売りでしかないのだ

簡単に幸せが手に入ることに臆病にならないで欲しい。

幸せはいつも目の前にある、
仮にあなたが今、つまらないと思っていたら

何もないことは可能性を見つける幸せが詰まっている。

こんな発想の転換で、瞬時に未来を明るく照らすことも自分で出来るのだ

可能性につまづくのは、枠にハマった生き方を採用しているからに過ぎない
そして、そんな生き方を採用してきたら誰だって初めの一歩が怖いに決まっている。

どんな生き方をしても、生きていることには変わりはないが
しかし、歓びが湧いてくる生き方にしたいと思いつつ
そういう行動に出ないのは、常識に恐怖してしまっている自分の壁があるから

単純に、幸せになり切って生きれば望む方向へ行くことは間違いないのに
私が決めるとか、心が大事とかいいながら、
自分に正直に、心に素直になれる人がどれだけいるだろう

あなたが幸せになるために常識に遠慮をしなければならないなら、
あなたにとってその常識は、ただの非常識でしかないと気づけばなぁ。と

そんな風に思う今日はベラベラ。

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