怒り・イライラ その苦しい理由 2

『怒り・イライラ その苦しみの意味1』 の・・・つづきです^^


では、私達はどうして感情を揺らして問題を膨らませているのでしょう?

これは売上が伸びないのでやめましょう ⇒ 需用 or 供給
仕事が進まないので残業しましょう ⇒ 実益 or  実害
理由を問わず報告してください ⇒ 無視 or 尊重

現実も、人の心も、2つに1つで動きます。

「理想」と「現実」の2つの間で心が揺れ、その揺れ方も「善い」か「悪い」か「大きい」か「小さい」かなど分裂していきます

そして人々は、明確な価値を持たない「常識」に、民意=世論=みんな同感=多勢というイメージ。つまり、マボロシ~なのに催眠にかけらたかのように「普通」を信頼して全く疑いません。

lgf01a201401021700常識や習慣に疑いを持たず生活している私たちは、そのリズムが乱れて初めてハッとする感情の電源が入ります

生活を乱されることを嫌がるからです

仮に音楽を演奏していてミスをしたら、気持ちを集中し元に戻そうとしますが

思考は、学校の教えを守り、習った通りミスに戻って「どうしてココで狂うかな~っ!?」と反省して、ミスを無くすにはどうすべきか・・・を分析したがります。


教えは思考のクセとなり、ミスを無くす傾向と対策を考えフォーマットを整えますが  気持ちの「因果」に向き合うことはありません。

「どうしてココで狂うかな~」の「どうして?」は表面的なことが修正できれば、目を向けないままです。

ココのミスに傾向と対策を講じるのが当たり前になると、探究が好きな人ほど、1度きりの人生を間違わないようにするための対策に明け暮れてしまうでしょう(私も探究好きでした^^。

(※心の因果についてお知りになりたい方はZEROスピリチャルセミナーをどうぞ^^)

そうした対策を練り、きちんとしている自負があるにも関わらず、他人が私を不愉快に思い、そこを何とかして!と要求してきたら、一体、どう感じるでしょうか?

そんなの勝手でしょ放っておいてよ。と思ったり
無意識にしていることを不快と思われても。と思ったり
周りもやってるのに、どうして私だけ言われるのよ。と思ったり

lgf01a201406201400ひとつの問題から感情が枝葉のようにあっちこっちへ勝手に伸び、だんだん煩わしくなります。

そして

「粗探しするなんてヒマね、こっちは毎日忙しいのに」

とモヤモヤを祓い、体裁をチャッチャと整えてしまうでしょう。

その方が、楽ですし、言掛りをされたと相手のせいにしたままでいた方が簡単にバッシングできるワケですから、「どうして」の因果に向き合わずに済むワケです。

まるで剪定をするように、バサッと切ってしまえば、気に障らなくなるのですから、煩わしさも無くなったと勘違いしてしまうのです。


そこが「置き去りにされたくないと訴えている痛み」を流すか or 流さないかの分かれ目です。

気にするから問題になり、気にならなければ問題にはなりません。

気になって仕方ないのであれば、自分の無視できない痛みが疼いて鈍感ではもういられないというサインです。

人は何か無視できない思いが意識に浮上する時、必ず体に痛みを訴えます。

そんな時に自分の痛みに向き合う誓いのエールを送って下さい。心を楽にして、どこかで言われたような、あの言葉「人のことは、ど~でもいい!」です。

「〇〇ちゃんも、一緒にやってたし・・・」と言えば
お母さんは「〇〇ちゃんはあなたとは関係ない」と言われませんでしたか?

o0400030012200438207みんな一緒だから平気なのか?
私一人では心細いからなのか?
波風立てると周りから目立つからか?

人や物事に構って、常識や普通に安心して、常に二極に分けて考えていては振り子のように揺れるだけ、躍起になって一人で全体の体裁を整えていては疲労困憊です。

まずは、シンプルなお母さんの言葉「人のことは、ど~でもいい」と人ではなく、自分と向き合ってください。

「置き去りにされたくないと訴えている痛みにフォーカス」するチャンスが巡ってきます。


「人のことは、ど~でもいい。」

原因と問題のベクトルを自分に向けてください

「どうして、こうなるの?」と浮かんできた感情=問題の出所は他ではない自分にあります

8498378262_822f652690_bそして、私を取り巻く環境に、必ず人間が登場します(まぁUMAなども出てくるかもしれませんが^^;)

人間は、親、兄弟、夫婦、恋人、親戚、友達、知り合い、男女、大人、子供、社会人、学生、児童、幼児、乳児、先生、生徒、・・・etc.

その意味と価値を持たせた言葉はどんどん分かれていき、それらを所有することは豊かなことだと教えられました

しかし、その豊かさと共にグローバル化した社会は、同時に、区別・差別の矛盾も抱えるようになり、人々の生命力を縛り始めます。

話を戻します。

私と、私の置き去りにした傷と、私のサインは、こういう地球ルールの中で分裂して起きています。

そして、どうあっても事柄には、必ず地球上の人間を含めた動物がキャストにならざるを得ないワケです(まぁUMAでもいいですが・・・しつこくてスイマセン^^;)

事件を説明する時には、Aさんが、Bさんがと配役を振り分けなければストーリーが説明しづらいように、キャストはどうしたって必要な方々です。

その必要なキャストがあって、私のストーリー(人生物語)が描かれます、私の思いで描きたいように

ochephoto仮にそのキャストがオーケストラの団員でストーリーを楽曲として奏で、私がマエストロだったら、サビには因果を引っ掛けてドラマチックに気合を入れて盛り上げるでしょう。

でも、オーディエンスにはオーケストラが曲を奏でているだけのことです。

マエストロは曲を自由にアレンジして指揮棒を、ソロのクラリネットは嫌い、ソロのフルートが好き、あのメロディーが好きだからゆっくり、と私好みにフォーマットに造り替えることができます。

配置された人や物は、ただそこに在るだけで、何の意味も知りませんし、ただいるだけです。

現実はオーケストラが在るだけ、私らしさという意識が好みを選んでいるだけ ホールには曲が流れているだけ

ストーリーはあなたの意識が作り出している世界で、キャストはあなたの意識にピッタリと合っています ですがキャストも在るだけで、そうは動いてなどいません。

ドラマチックなストーリーを造っているのは、あなたではなく あなたが動いていると思っている意識です。

私と他人、今と過去、今と未来、過去と未来、女と男、仕事とプライベート、金持ちと貧乏、忙しいとヒマ、楽しいと辛い、高いと低い、太いと細い、出来ると出来ない、価値を区別して、好みのストーリーを描きたい、それも、理想と現実にわざわざ分けているだけなのです。

 

そして、全ての人の問題の根本は「分離感」から発生しています。

 

このお話は最終へ・・・つづく。

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