怒り・イライラ その苦しい理由 3終

『怒り・イライラ その苦しい理由 2』  の・・・最終章


そして、全ての人の問題の根本は「分離感」から発生しています。

2つに1つと、あらゆるものを分け選択していく定めをもった人類と地球

理想と現実も分けると、相反するもののように見えますが、空想は現実から生まれ、現実もまた空想の影響を受けて動きだすように見えます。つまり、ひとつの大きなサイクルのようなものです。

それらが「すべて」なのに、私という意識がすべてを分け選択しているのです。

lgf01a201312210700全体と私、家族と私、友達と私、同僚と私・・・

僕が僕であるために(by 尾崎豊♪)みたいな、私が私らしくあるために、わざわざ分解して、私の存在を確かめるために、ソロを味わいたかったのです。

しかし、ソロは孤独で全体と離れたことを恐怖にさえ感じます

そうした時に、思い出してください。

全体は、壮大なひとつの『夢うつつ』という楽曲で、ソロも壮大な楽曲に含まれる調べです。

問題は、全体の一部だということを忘れ、私ひとり。と、私を主張した時に造られます。


どんな時も、現実はあるがまま=無条件であるがまま変わりません。

でも、視点のポジションを換えれば、あるがままという「全体」=すべてを包括している空から離れたことなど一度もないのです。

全体から離れたことがないのに分離していると錯覚しているのは、身に染み込んだ人間意識が、自我を持ち、思考する意識高い系の自意識があるので、「あるがまま」に否定されていない私への愛・叡智が普通過ぎて理解できないのです。

人間意識で「〇のせいで私は報われない」と、私と〇に分け、何かが私には足りないと感じれば

これを補わなければ。
今度は負けられない。
また惨めな思いはしたくない。   と、

思考はすぐ方法へ逃げます。次から次へとやってくる疑問や問題や感情のベストな状態を探して問題解決していては人生は対応で追われ切りがありません

方法を考えることで感じなくても済むように、自分を思考でいっぱいにしておく必要があると恐怖心から対策を講じておきたがります。

lgf01a201411022100私が可哀そうだから、こんな目にあいたくない
私が苦労したから、こんな苦労は味いたくない
私が楽をしてるように見えたから、誤解されたりした
私が立ち向かったから、いい恰好してと白い眼で見られた

日常の小さな誤解は自分に価値を持たせた時に発生します

その苦悩を感じていて私のものと掴んでいるのは誰でしょう?
その不自由を感じて私のものと掴んでいるのは誰でしょう?

言葉に意味と価値を持たせ、その奴隷にならないでください、もうお分かりですね。

カタチないものを掴んでいると思っているのは私の意識だけです。

本当は何も掴んでなどいませんし、影も形もないものマボロシを自分らしさで掌握しようとしているだけなのです。

ホ・オポノポノの考えでは、 「自分の身の回りに起こる問題は、100%自分の記憶(潜在意識)の現れである」と言っている理由がお分かりになると思います。

思考で片づける方法に逃げずに、心に感じた体感を感じ尽くすことで鈍感ではなく直観が冴えていき、頭で考えなくてもBODYというアンテナがSECOMのように働いてくれます^^。

私が私を認めて肯定してあげればいいのです、私が私の苦しみに理解をしてあげればいいのです、犠牲心から育ったプライドで跳ね返さずに、正攻法の方法で心を縛らずに


lgf01a201401072100考えなくていいのです、ジャッジしないでください。

所詮、地球ルールは処世術でまかなえますし、嫌われることを恐れないでください、どのみち2つに1つの現実世界です(※アドラーの「嫌われる勇気」という本もありましたね^^)

全てを包括した空間とその空間から創造された身体に、ルールは不自然でしかありません。

人への意識的な否定は、私への無意識の否定が根底にあり、私が否定するものによって、私を傷つけています。

本当は

私の存在(本音)に気づいて。
私の心(本音)がつぶされている 。
私(本音)が身動きができない。

といった、裏切られ、報われない思い=犠牲心が湧いてきて相手や物事とデュオ=共鳴しているだけです。

ベクトルを私に向けたときだけ、振り回されている価値観に気付き、振り回さないで欲しいと本音が語り始め、そんなに振り回されていたのかと気づいた時に、癒しが起こります。

怒りの問題は、私の地球ルールを守る意識の頑張りを理解しない 犠牲心からのメッセージ。

ひとりで頑張らず全体の調和で補い合い、全体を信頼してください、ソロの音色はリラックスして伸びやかに響くはずです^^

そして、ソロになったことは恐怖ではなく、楽しむことだったと「楽」になると思います。

生まれてきたこと、生きていることに意味づけする人間の習慣に、喜怒哀楽は付きものですが、大きくみれば、苦しくても手放さないのは、その苦しみがどんなものか個人的に楽しみに変えたいと望んでいるからです。

個人的に変えたいことは、相手ではなく個人的な私を変えたいと望んでいるから。

お手本にしてください、そして、忘れないでください、私を包括している「すべて」が、いつでも私のあるがままのカタチに「違うよ。そうじゃないよ。」なんて言たりしません。

なのに私は相手や物をみて私の思った通りにしてほしいと思っています^^。

苦の始まりです。

全てはあるがまま、起きてくるがままに私を取り巻き、その空からみれば原因も結果も意味も価値もなく「起きた」だけです。

人が意識して起こした出来事であれ、全体の一部で起きたことでしかなく、あるがまま起きただけ。

起きたことに人間意識が反応して意味づけしているのに他ならないのです。

 

「人のことはど~でもいい」という投げかけは、自分のよき理解者は自分しかいないことを理解する言葉でもあり、napierの「自分に還る」プロセスの初めの一歩にあたるようなテーマです

私という存在もオーケストラの音の一部で全体の中に溶けているものでしかありません、また、全体は調和しかなく、そのことを理解しだすと、私と主張する私は消えてなくなっていきます。

もちろん、怒りもイライラも苦しみも薄らいでいくものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です