悪魔はあなたの霊性をUPさせます!

lgf01c201404160500サタニズムで作家でオカルティストであるアントン・ラヴェイがアメリカで1966年に創立した悪魔教会が今年で50周年を迎えるのだそうです。

そんな記事を読んで、水木しげるの「悪魔くん」という漫画を思い出した私ですが、悪魔について考え直した話を今日は。

悪魔教会50周年というと、関係者はどんな方々なのか?まさかデーモン閣下も!?・・・と妄想して妙な気分になります^^;

下図は地上におけるサタニズムの11のルールというものなのですが、デーモン閣下のような不敵な笑いと不気味さを想像する内容かと思いきや、この11のルールで悪魔への妄想はバッサリ斬られてしまったのでした。

なぜなら、そのルール、、、普通といっていいほど普通で、拍子抜けしてしまうものだったのです。

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日本語訳は以下のようなものです。

【The Eleven Satanic Rules of the Earth】

1. 求められてもいないのに意見や忠告を他人に与えないこと

2. 他人が聞きたくないようなあなたのトラブルを話さないこと

3. 他人の家に入ったら、その人に敬意を示すこと。それができないならそこへは行かないこと

4. 他人が自分の家で迷惑をかけたなら、その相手を情け容赦なく扱うこと

5. 結婚の徴候がない限りセックスに誘う態度を見せないこと

6. その人にとって重荷になっていて楽になりたいと求めているのではない限り、他人のものに手を出さないこと

7. 魔術を使って願望がうまくかなえられたときは魔術の効力を認めること。うまく魔術を使えても、その力を否定すれば、それまでに得たものをすべて失ってしまう

8. 自分が被る必要のないことに文句を言わないこと

9. 小さな子どもに危害を加えないこと

10. 自分が攻撃されたわけでも食べるわけでもない限り、他の動物を殺さないこと

11. 公道を歩くときは人に迷惑をかけないこと。自分を困らせるような人がいれば止めるよう注意すること。それでもだめなら攻撃すること


日本の「躾」に近いような気がしたのは私だけでしょうか?なんと秩序あるルールだと思いませんか。

本当の意味で驚いたのは、napierでお伝えしているスピリチャルライフの説明と類似する事柄がいくつもあるという点です^^

napier は、助け合う世の中が社会の理想であるなら、まず、一人ひとりの自立も大事だと考えます。

6b9c3f53最近、話題の「マタニティーバッチ」も、妊婦さんに配慮した妊婦用バッチ。守る側、守られる側、というスタンスが物議を醸していますが、便利は同時に思わぬ不便も炙り出すのがこの二極世界。

少子化のいま、妊婦を社会が手厚く保護することは国の責任。

ですが、責任を取る側=保護する側もそのリスクを回避するためには、私達に更なるルールとそれを守る義務を課すのが常でした。

「保護」とは弱者を護ることを言いますが、弱者が自らの弱さを楯にその責任を放棄して国に守ってもらうことや、守ってやるから言う通りにしないと罰則を与える。という双方の主張はそれぞれの主導権争いを生む関係性になっています。

その発想の根本になっているのがお金の捉え方、つまり「税金」

税金を保険のように考えてしまっている世論が絡むと本質が薄れ、守ってくれる約束のうえに国民は注意を払わなくなり、生きる術に工夫を凝らすことも少なくなります。その結果、裁判、賠償問題が発生します。 けれど、これが一億総白痴化現象の側面でもあるわけです。

勧められるがまま、納得もなく(覚悟もなく)、流されるがまま。

悪魔の囁きのように聞こえますか?じゃぁ、どうしたらいいのよ!とお思いになりますか?

しかし、そのモヤモヤした気持ちは、無知からくる不安や恐怖ではないでしょうか?

不安の反意語は安心ですが、貴方の安心・嬉しいことはどんなことでしょう? サプライズが起きたときの高揚感を知ってしまうと「期待」になります、期待は「希望」に繋がります。

期待や希望は自分が満たすものですが、一億総白痴化現象は人に満たしてもらおうとした結果です。

私はサタニズムの11のルールには、「人への期待は毒にもなりうる」という厳しい教えがある気がするのです。


悪魔に裏切られた11のルール、なんだ悪魔も大したことないなと冷静になればなるほど・・・今度はちょっと、そら恐ろしく感じるのは

仮にも50年前の「悪魔」の教えが「大したことない」とは。 私達はサタニズムを超えた更なる無法地帯な現代社会にもしかして身を置いてしまっているということでは!?と感じてしまうのです・・・・・・・。

だとすれば、私達の常識こそ疑ってかかる時代かもしれないというワケです。

napier がセッションやセミナーで皆様にお伝えしている、ZERO、空、TAO の世界観は、今のスタンダードな常識や観念が「本当にそうですか?」と疑ってかかるところから始まります。

positive や negative などの観念を取っ払い、社会と自分、また、私らしさという固定観念までも、個人の持つ圧倒的な生命力でリセットしていきます。

エピソードZERO疑うべきは、意味づけや価値といった社会によって作られた「格付け・他者評価・自己評価・ランク・階級・採点」です。

それらを無くすと、本来、中心にあるのは、魂というか、本体そのものというか、私という芯=真空というか、その内側の大きく絶対的な生命力だけが残ります

その力を現実社会に放射・発散して地上で(三次元フィールド)生き切る=謳歌することのコツを伝授しています。

その社会常識に左右されない、自由意志=宇宙意識を思い出すことは、自我・エゴからくる自信ではなく、生命力への自己信頼を取り戻すことで心の可動性は自然と上がって行きます。


意識について、具体的にサラリーマンの「残業」を例に挙げましょう。

協調、協力という良きイメージであれ、拘束、束縛という悪いイメージであれ、その経緯、結果、その受け止め方で、気分や疲労度、達成感、充実感が ガラッ と違ってきますね。

それは、一人ひとりの生い立ちにまつわるクセ・習慣からくる固定観念やカルマなどから発散される貴方の意識が、現実に反映され人生を描くことになります。

あなたが世界の中心です。という言い方はこのモノの捉え方からです。

しかし、マニュアルやルールに慣れてしまった私達は、十人十色であることを忘れ、クレームが起きないであろう自己認識で標準を計りはじめ、「分かったつもり」でコミュニケーションしてしまっています。

創造性の欠如は「分かったつもり」を生み、「そんなの常識でしょ。」と理解しているを前提に会話が転がって行きます。

しかし、その常識は荒唐無稽で、尺度にすべき標準などないのです。 その理解なくコミュニケーションを重ねれば、トラブルが増えるのは当然といえば当然なのです。 その先の話はスピリチャル・コミュニケーションセミナーで(笑)

スピコミュ

バランスした内側世界と、アンバランスな外側世界を一人ひとりの創造力で補い合ってきた人類でしたが、想像する頭脳も、ルールを使いこなすだけの頭脳になってしまいました。

与えられるだけで満足するようになると、創造力は損得勘定に使い、感覚は鈍感に、人の生き方は次第にシステマチックになり、その成れの果ては一億総白痴化に拍車をかけることに繋がっていくのです。

11のルールは語っています。 選ぶのは一人ひとりの選択、選択する力=知力を身に付けることは「仲良しこよし」でするものではないと。


悪魔教会の11のルールは、ZERO・セミナーで触れているエッセンス「ノンデュアリティー・非二次元世界」と似ていると感じるのです。

ノンデュアリティーのように「生命を今に生き切る」その本質を究めていくと、人や人の行動、自然や地球、そして宇宙まで、抽象的な言い方や表現方法でしか示すことが出来ないため、リアルに理解するには、感性が本当に大事になってきます。

人体が視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五感を通して生を実感していることを思えば、感覚が先にあり、頭の理解や知恵は後です。

思考で具体性や抽象性を比較すれば話は混乱するばかりですが、肉体を通した感覚や体験は「無かったこと」には出来ないものですし、更に深く理解した方は全身に衝撃・ショックが走ります。

私もショックを味わった者ですから、napierのセミナーでは目に見えないエネルギーを実際に体感して頂き、頭でも理解して頂くことで、抽象的な世界を具体性をもって感じとって頂きます。

8605735679_dc98619486_b (1)know how 的な法則性から正しさを求めるようクセづけられた社会を通して、サタニズムの11のルールを鑑みるとき、私はそこに「誰のための正解を出したいのか?」と提言しているようにすら感じます。

スピリチャルの入口で皆がハマってきた罠があるとすれば「善人であったがための落とし穴」しかない気がします。

善人であるために努力を重ねてきて、落とされる穴に嘆くのが恨み辛みであれば、その努力は誰のためであったのかが疑わしく、その嘆きは善人であるために無理を強いた自分への自我自賛の姿であったかも知れないのです。

生は、自分のためにある。 その根っこを張らずに生きれば常に正解を求め不安にかられるものです。

答えを求めるアプローチはひとつではありません、愛の側面からいえば「何をしても見守るスタンス」、悪の側面からいえば「好きでやってるんだから放っておけスタンス」

愛の側面が母性なら 悪の側面が父性とも感じられたり

温室の無菌室で培養され、そこで生きるだけでは生命力が無駄遣いになることを神は喜ばないのと同じで、雑菌だらけの中へ思い切って冒険する生命力=どうした本気をいつ出すんだ、出してみろと囁くのが悪魔のイメージなら?

貴方は、生きながら死んでいるような生活と、必死にもがきながらも生きる生活のどちらを選びますか?

どちらにも選択の自由はありますが、人生に憂鬱を感じても、ほとんどの皆様はその時々の選択に自分を諦めることなく「生」を選んでおいでです。

人生の岐路にあり選択を迫られたとき人は畜生根性を出されるのです、その「なにクソ根性」の源は、核融合ぐらいのパワーを持つ生命力であることを知ってください!

「悪魔」一概に斬り捨てることの出来ない、私達に無くてはならない裏の側面だとお感じになりませんでしょうか。

さて、皆さんは「悪魔」どのように捉えておいでですか?

 

 

 

 

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