感と勘の誤解

lgf01a201402231700私達はいつもどんな時もZERO空間から願うものを瞬時に受け取っています。

この事を知り現実加速が成されていく過程は、細胞が震えるほどの悦びを味わうと同時に、恐怖も浮いてきます。

天意(あい)のエネルギーはダイレクトに身体へ入ってきます。

なぜこのエネルギーに気づけないのか?

それは、どんなに素晴らしい経験をしても常識的価値観や常識的意味づけで感情をなだめて、理性的に冷静になろうと頭で対処するからです。

現象化するスピードが自分の思いより速くなってしまうと、心の準備(現実的対処方法)が無いのでビビる=恐怖が湧くからパニックを落ち着かせようと不安になるのと一緒です。せっかく自分が引き寄せた現状なのにです。

人が本当に欲しいものは地位・名誉・お金といった主だったものではなく、本来は「絶対の安心」の様な気がいたします。

人によっては乗り切る知恵であるがゆえに学力を重視したり、手先の器用さを重視したり、想像性を重視したり、この世を安心して楽しめるために其々の分野で花開かせようと頑張っています。

そこに癒しが加わるようになると、シックスセンスを求める方も多くなりました。

私のところにもそういうご相談をされる方もいるのですが、そういう方の中には、いわゆる「勘がいい」方がいらっしゃいます。

それは、こうなったら、こうなって、こうなってしまったから、こうするのが良い。といった具合に、想像の羽根を広げられるのですが・・・そもそも、シックスセンスの感と勘は同じ様でありながら、想起させるポイントが違います。

シックスセンスの感は、感覚のことでありヴィジョンを観る方もいれば、メッセージが降りてくる方もいらっしゃいます。

私の場合はメッセージが五感に働きかけてくる事が多いのですが、その感を頼りに生きることはしませんし、出来ないというのが目下のところの結論です。

けれど、勘が良い方は、何を頼りに生きているのかというと、思考のデータ処理で「~した方がベスト」という計算の弾き出しから勘を養います。

つまり、推理力です。(善し悪しの問題ではなく)

勘というのはデータ分析処理をした結果、残された可能性を語るものであり、このコラムをご覧の方はお分かりのように、思考で弾き出した計算通りに事を運ぼうとなされた方が、人生どころか、その真逆を歩むこともしばしば・・・期待通りにはならないことがほとんどです。

思考を使うところ、必ず意味づけ、観念があり、その観念で人がどう動くか心理を働かせ、その心理を上手くコントロールしようとしても無意識下で起きる感情を持て余すことしかできず、最後には心身ともに疲弊してしまうものです。

その疲弊したときこそチャンス、生きる価値観を見失い固定観念を脱ぎ捨てざるを得ないワケです。

感と勘の違いは、全て受け入れるスタンスと、受け入れる材料を仕分けるスタンスほどの差が本来あります。

この事に気づかず、全ての友好な関係を保てるはずは・・・残念ながら無いのです。

自分の判断による固定観念は「個」を強め、自我を人に認めさせようとコントロールに走ります。そして、人生の勝ちや優良や正解を依り代(よりしろ)に生きると、その意味づけを更に真っ当なものにしようと更に頑張ります。

「意味を持たせば、その意味によって滅びる」この世は二極の矛盾によって成された世界です。
個を持てば、持たせる意味によって気づかされる問題が起こります。
苦楽は表裏一体、意味を強めることで反対の意味も強まります。

意味づけがピンチを創り、同時にチャンスをも創る。

それは天意によるギフトだと気づくようZERO空間がアナタの人生で何度でも何回でも想像を現実化することで教えてくれているのです。

それは「勘」頼りから、アナタの「感」覚を信じられるようになる自信の境界を移行する瞬間でもあります。

 

 

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