生命力の謳歌 オリンピック

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連日、オリンピックも 起こることが起きてくる ことを見せてくれていますね

【感動】とは、観た(起きた)ことを、人や物事に投影した私の感情の動きのことを言います。

「奇跡が起きました!」という言葉を耳にしますが その時それは起き、起きることが起きただけ

言葉遊びをしているようですが 「起こる」のであって 「起こす」のではないようです。


オリンピックのメダルの獲得合戦は、国の威信がかかった国策でもあります^^(戦いの色合いが深まりますが)

代表選手と国は、家族のため、応援してくれた人のため、未来ある子供達のため、東京オリンピックのため、と自我=ego の意味づけをマッチポンプにします。

その背景を背負った選手たちがオリンピックのステージに立ち 頂点を目指しますが、スピリチャルからみるオリンピックの観方は、生命力の謳歌に尽きます。

人間意識的な「~ために」だけではプレッシャーになるばかりです。

オリンピックのような大舞台でトップアスリートから見える勝機のポイントは『無我』と『夢中』、誰かのために 何かのためには、精神性の話で、生命力とは次元の違う話です。

選手はよく集中力が途切れて・・・とコメントしたりしますが

集中力が途切れたとは、私と敵、私とオリンピック、私と日本と、分離した心が集中力を散漫にするワケです。


オリンピックと関係ない話になりますが、過去に、崖から車でダイブする事故を起こしたことがあります^^;

その時、いわゆる「ゾーン」というものを体験しました。

鬼気迫る状況は、時が延びます^^; まるでスローモーションで動いているように見えます。

あっ!と声を上げた瞬間からスローモーションのように時が延び、状況を飲み込めない=意味や価値が一切ない空間が存在し、状況がただ起こっていることを観察者が傍観している、起こっているのをただ眺めている、ただ、在るだけ・・・

崖からダイブという危険極まりない時に、人の意識世界では別の時空が存在し、意味も価値も持たないショックな空間があるのだと知りました。

どうして!?なぜ!?の理由や反省や概念の思考が介在しない、スコ~ンと異次元へ入ってしまったような「ゾーン」「無我の境地」は、無機質で、でも事が目の前で坦々と展開される Alice in wonderland の様なファンタジーの世界でもあり、トップアスリートが極める意識世界かもしれません。 私の場合は不可抗力でしたが^^;

極限でトップアスリートがそのゾーンに入ると、体を動かそうというより、「思わず」体が動いたと言ったりするようですが

普段の練習の賜物=鍛錬=習慣が無意識に出る、奇跡が生まれる、現実が起こる瞬間、これが三位一体=無・意識の閃き+無・意識の行動+無・意識の生命力という理想のカタチが現実に実を結ぶ瞬間なのではないでしょうか。

そこに、手段や方法は関係なく、常にその時空はソコにあるけれど silent 過ぎて気が付ないように思います。


連日、メダルラッシュに沸く日本のコメンテーターは「どうやったらこういう結果が出せるのか!?」と歓喜のコメントしますが、その言葉はすでに方法を探してしまっています。

ゲームの「攻略テクニック」をベースに置いた話法に聞こえてきますが、同じ方法を取っても、同じ結果を残せるかどうかは、・・・知るところですね。

どうやったら?という言葉は、思考から引っ張り出したテクニックの言葉で

昭和初期のアナウンサーの「出来事を感情抜きに実況する」しゃべりより、今は、臨場感を出す話し言葉の「共感性に訴える実況」に替わっているからです。 (※スピリチャル・コミュニケーションセミナーでこういう話を詳しくお伝えしています)

観たままを感情抜きに伝える話は現代人には物足りなく、それゆえに、刺激慣れしており、さらに刺激を求める現代の姿があります。

共感性を生むには、客観性に、個人の主観を重ねる必要があり、そうして分離感が強められます

オリンピック期間には、個人の努力だけが全てのような映像とコメントがシュプレヒコールのように繰り返し感情に訴えかけるので、人はオートマチックに刷り込まれます。

もう一方で、結果にコミットできなかった選手は、努力の甲斐がないと、努力を否定し、自己否定までしてしまう無力感を味わうようです。

ですが、それは持ち続けていた精神性=努力・忍耐・我慢の崩壊が起きた時でもあり、大事に所有してきた信念を手放すときでもあります。

どうしたらいいんだ?は、答えが見つからない状態 つまり、手段方法の思考に頼ることと決別する瞬間。

起きることが起きただけ、その時、その結果・答えが起こるだけ、人の生命力の誤差はありません。

その時に起こった、生命力の謳歌という全体性の中で起きたこと、個で手にしたものは生命力が尽きると共に消えてなくなります。

人としてアスリートの素晴らしいところは、自己の生命力と向き合うことを習慣にしてきた爽やかなスピリット達だということ。

そして無我の境地を知る道をスポーツを通して歩むスピリット=生命力だということに尽きる気がします。


オリンピックのトリは「マラソン」ですが、私達もマラソンをしていると、初めは苦しみの先にある楽しいことを想像して苦を逃れようとします、そして、だんだん雑念が消え、走るリズムと足を動かすたびに感じる重力と乱れる呼吸しかなくなります。

そこに、終わった後の楽しいことや スタート前のドキドキの記憶などはありません。

今起きていることだけに集中すれば、こだわりも、私らしさもどうでもいい、それこそ私を抜いた、得体の知れない存在がその時、そこに一体となって在るだけになります

私を持てば苦しくなり、私をしっかり持って体験しようとする思考は「頑張り」しかないワケです

頑張りや努力を否定しているワケではありません。

毎日の練習は習慣となり、その習慣がアスリートとしての特性を生むのですから、学者は頭の使い方の特性があり、学者の特性を生むのですから、それはその人が使いたいように使い、そのゾーンを延ばしてきたことに他なりません。

でも、その特性は生命力から生み出されたものであり、その力が起きる時に起きる結果として起きてくるだけ。

得体の知れないもの=ゾーン=全体は、そこに在り起こってくるだけ。

そして 起こることだけが起こり 起こらないところには起こらないsilentがあるだけ

起こることがラッキーなのではなく 起きないところが不毛なのでもありませんsilentなだけ

精一杯にやったところに 個の所有にこだわる小さな考えは無関係で次元の違う話です。

そこに現実的な距離や労力やお金、意味や価値や尺度は一切無です。

私に起きることのみが起き あなたに起こることのみが起こる

あなたに起こることは 私には起きることはない

私に起きることは あなたに起きることはない

けれど すべてはひとつの「夢うつつ」という全体のメロディの中でのこと善し悪しはそこにはありません。

音符を響かせ音を引き上げれば 私もいっしょに引き上がり、それは全体の音波の共鳴現象となって底上げされます。

その全体というすべては、何でも許されている無条件の愛とも言えます。

愛されていること、愛することを恋愛や愛情で捉えているいると見えずらいかもしれませんが

無条件の愛とは、すべてが許されている=在るがままを言います。

ですから、人の汚いところ、綺麗なところを含めた 喜怒哀楽 全ての表現がそもそも許されています

嫉妬も、悔しさも、悲しみも 許されています
歓喜も、恍惚も、放心も 許されています

そして、私たちはその無条件の愛の「夢うつつ」というメロディーの中の調べでしかありません。

生命力の謳歌は、そんな壮大な全体の中での躍動であり、全体はその躍動を受け止めるショックアブソーバーともいえるでしょう

ドラマを生むオリンピックも無条件の愛に包まれているスポーツの祭典です、それは字通り「生命力の謳歌」平和の祭典なのかもしれません。

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