言いなりになるな!?本当の自由とは?

831x554xPositive-thought-1024x683.jpg.pagespeed.ic.wPwHNjAStOここ最近、ムダな力が抜けています、頑張ろうとする力とでもいいましょうか?それだけに私がお伝えしてきたことで、ふっと省みることがあります。

改めて省みること、それは・・・「自由」についてです。

例えば、芸術作品の中には、大人が観て美しいもの、笑えるもの、鼻にもかけない作品があり、それぞれの好みに分けられてしまうのは、独特の世界観を表現するから。

意識世界では、その独特の世界観が、その人の「概念」と言い換えることが出来るのですが、napier が提言するスピリチャル・ライフのベースは、概念を否定するものではなく、その概念に気づき、最終的には概念すら超える「自由思想」です。

自由思想は何をしてもいい、したいことをしたいように、本当に自由。

ですが、自由は解放であったり、奔放であったり、個人の観念やイメージがあるため「全てが自由だったら、殺人を犯してもいいのか!?」と自由を妄想して怖がる方もおいでになります。(※大多数がそうですが)

殺人は大げさでも、迷惑行為を受けイライラする人もおいででしょうし、私もマナーがないと思えば、そのことを誰かに話さずにはいられないでしょう。

「分かって欲しい」という気持ちが大きくなり過ぎると、被害者や加害者をオートマチックに造り出すのが現代人というマシーンです。

マシーンはマニュアル通りにしか動けない。データをインプットし、収集し、解析し、ケース(原因)とエビデンス(証拠)を弾き出し正解を必ず出すことが仕事だからです。

けれど、何かの動機づけは、ほぼ「分かって欲しい」=「観て欲しい」=「表現したい」という、やってみたいという本能・生命力から始まっており、結果は二の次なのです。

目に見える現実的な行動や言動と、エネルギーの世界は全く別のことが起きています。

イライラは波動エネルギー的には粗く、至福に満たされている時は感情の波がないので穏やか。

イライラの原因を人にお話しする時、表面上はただの会話に過ぎませんが、話し手が粗い波動であれば、受け手は会話しているだけで波動が「感染」して粗くなります。

すると体がだるくなったり、調子が狂ったり、抵抗して関係が縺れ(もつれ)てしまったりと、どちらか一方の強い波動が感染し、いわゆるコントロールが働いて同じ波動になります。

「共鳴」といったり、「類友」と言われたり、現象にいろいろな呼び方をつけますが

逆に、微振動で細やかな至福の波動を放つ人がいたら、その方から流れる波動は「あの人といると気持ちが落ち着く」「悩みもどうでも良くなった」と、ここにも同じ作用が働きます、誰もが起こすエネルギーの世界です。

l201106131600ですからエネルギー世界でみると、この世界は全て均衡を保ちながら成り立っている世界ということが言えます。

良いも悪いもない。

エネルギーで観れば、一見、あなたが被害者の立場で、その被害の程度を文句・愚痴で口にする波動は、話した相手の波動を巻き込み、雪だるま式に大きくなって行きます。

そうやって負の連鎖を、被害者だった貴方が起こしていることになるのです。 負の連鎖を止める役割で表れるのが愛ある者の存在です。

一般的に、観えない世界を怖がるのは、観えないから分からない。 ということに尽きると思いますが、では、エネルギー体=人の素晴らしいところは、自分の意識が生みの親であり、いつでも意識のスタート地点を決められることにあります。

そして、それに沿って人は現実的に出来事や環境さえも整えていくように形にするように、進化し、同時に創造性も養っていくところにあります。

ロボットのようにインプットするがままで、疑問・創意工夫・閃きを無視し続ければ、常に人の不安材料や社会の不満材料を掻き集め、証拠・結果に共鳴・同調するオートマチックな連鎖が続きます。

人はそこそこそ不満を持っているものです それが普通です、オカシイことでもなんでもありません。 しかし、影のように付きまとい爆発寸前の心配や不満の火種を消すには、そういう感情と態度がどう結びついているのかを理解するのが早道

その手段を仏教や哲学を含めているスピリチャルでは、瞑想しなさい、内観しなさいと言ってみたり、霊性を高めなさいと言い換えてみたり、スピリチャル界も言い方がゴッタ煮の状態で、余計に掴みどころがないように思えます。

napierが皆さんにお話しすることは、「はじめは不安なんか無かったでしょ?」というスピリチャル・ライフ実践の中で気づいた、力を入れ過ぎた部分から積極性を抜く、安心して生きるために引き算するエッセンスです。

自己の世界観を膨らまし、生活も加点ばかりを狙うと、現実は世知辛いものになります。

ですから、自分の自由意思を味わいたいなら、当然、人の自由も認める精神の成熟さが欲しいもの

意識と現実の天秤を中心のあなたという自立的態度でバランスを取ると、不安も減りベターだといえるワケです。


lgf01a201309221400「何をやってもいい 言うことを聞かなくていいんだよ。」

そう言われたら、どうでしょう? そう言われたら、どうしますか?

それを考えさせられるシンクロが最近、私の周りで起き始めています。

スピリチャルライフを実践していいても時に気が散ることがあります、そういう時は「真に伸び伸びとして自由になりたい」という衝動に駆られるたりします。

そういう時は、賢者の教えを振り返り、揺れ幅を計ったり日和見な態度を内観したりするのですが、やもするとゴッタ煮状態のスピリチャル界は、教えが沢山あり、精神世界やら、哲学やら、自己啓発やら、宇宙物理学やら、エコやら、宗教やら、ナニやらカニやらがゴチャゴチャしていて、本当にスッキリしていません。

スッキリしないから、師を求め、師のいう事を1~10までまともに聞いて修行めいたことを実践したりします。 勤勉な日本人にはその方がシックリくるでしょうし、取り組む姿勢は素晴らしいと教えられているので、尚のこと力を入れ頑張りますね。

けれど最近、それすら、そうすべきではない。「~べき」を抜くことをオススメしている私の中に「そうすべきではない」と強く気持ちが湧いてきます。

教えというのは偏りなく聞くもの。

強い教えは、昭和チックな優劣を生み出し、聞く者の波動を落とす作用があります。 そうなるくらいなら、徹底的してその者達から遠ざかりなさい。とまで湧いてきます。

究極、「他人から教えてもらうことはない。」とメッセージが降りてくるのです。

聞きたいと思った話でも、話す人、聞く人の姿勢がバランスの取れた心持ちでなければ、エゴ(思考)の解釈に邪魔をされて腑に落とすことが出来なくなる場合があります。

大家と言われる先生方も、昭和を生きた方々なので生き癖があり、「~よりは~すべき」と言った表現が普通に飛び交います。解放しなさいと言いながら、方法論に走ると そういう表現方法にしかならないので仕方ないことなのですが・・・

けれど、参加者の波動を下げたり、個の表現方法を閉ざしてしまうかもしれない、「戒め先生」は学校だけで十分。

大人の学校は自己探求と意識の勉強なのですから「戒め」から「自由」へシフトしましょう♪

「違うのだから、同じである必要はない」とメッセージが降りてきます。

善かれは余計なお世話。 善かれは余計な鎖。 この簡単で目から鱗が落ちる経験をすると面白いと思います。 誰でも日常からこのエッセンスを拾うことが出来ますし、答えは日常に溢れています。

自分で経験したことしか腑に落とせません、同じ様なことでも、ひとつとして同じ経験を積むことは出来ない、いわば一期一会の世界・・・だから日常が奇跡。

その奇跡は、溢れているのですから、後生大事にせず、すぐ捨てましょう。

だって、日常が奇跡なのですから大丈夫。

先生が、親が、兄弟が、恋人が、カリスマが言ったからという言い訳の本質は「コントロール」。 あなたの観るもの、聞くもの、感動、経験したという達成感も、一人ひとりが全く違う受け取り方をしています。

経験談は人のもの自分のものではありません。ですから聞く方の態度もヒントを得るぐらいのラフさで、言うことを真面目に聞く必要は全くありません。

自分に自由になるということは 自分が自分の先生になること、指導権を自分が自分に与えること。

そうすれば「あなたはすでに豊かで、そのままでいいのです」の意味が分かってくるかもしれません。

自分の自由な思いに、素直に生きること、それが求められていると痛いほど感じるこの頃です。

皆さんはどうお感じになられますか?


日曜日のEテレで「びじゅチュ~ン」という5分くらいの番組があります。

出演なさっているのは不思議系アーティストで話題の井上涼さんで、毎回1つの美術作品を題材に観ている側の想像を歌ってしまう、そんな短い番組で笑っているFUJIKO.です

「びじゅチュ~ン」の動画が無かったのでコチラを(笑)

井上涼さんの作品

いや~HATOYAを大胆に手玉に取ってる感が面白い。

あなたの感想はどうですか?(笑)

 

 

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